この度、日野原記念上尾栄光教会が創立50周年を迎えましたことは、主の深い憐れみと恵みによるものであると、心から感謝申し上げます。思えば、「広い敷地、建物が与えられ、そこで牧会する教師も決まったのに、信徒のいない教会では困る。あなたがた夫婦はここを出て、教師を迎える信徒になりなさい。」と、当時通っていた大宮教会の谷川真海牧師からお勧めをいただき、主人と私は大宮北伝道所に移り、日野原ゆり伝道師を招聘する第一号の信徒になったのでした。今からちょうど50年前、1963年のことでした。あれから50年の間に、実に多くのことがあり、思い巡らしてみますと感無量です。
50年のうち、前半の23年は初代日野原ゆり牧師の時代でした。アメリカで学んだ幼児教育を推進するため
「光の園幼児クラス」を開園し、やがて父兄たちの一部が伝道所の会員として参加するようになり、礼拝出席者の数も増えてゆきました。約15年の大宮北伝道所時代が過ぎ、上尾栄光教会の時代へと移り、上尾の地で牧会・伝道を精力的に続けてこられたゆり牧師は、8年後、脳梗塞で突然倒れられ、主人と私は病院で付き添い看護を務めました。徹夜の付き添いは5.6週間続き、月・火・水は主人が、木・金・土は私が交代し、その間主人は説教や週報作り、看板書きなど礼拝の準備をしました。過労のため鼻血が止まらなくなり、
主人まで数日間入院するなど大変でしたが、主の御守りの中、信徒説教をもって一度も礼拝を休まず続けられたことは本当に感謝でした。しかし、この時より教会の長い無牧時代が始まり、4年後にはゆり牧師が天に召されました。
ゆり牧師の闘病生活と前後して、教会には、近隣一体で始まった思いもかけない土地区画整理問題が勃発しました。ゆり牧師の病・土地区画整理問題と、教会は試練の連続でしたが、わずかな教会員が一致団結し、祈りと奉仕と献金とをもって、この難局を乗り切ってゆきました。厄介な問題ばかり抱えている教会を見切って、他所の教会へ行ってしまっても決しておかしくないような状況でしたが、皆しっかりと教会に踏みとどまり、主にあって一つ心となり、耐え忍んで頑張り続けたこの頃の方々は、まさに同士と呼ぶにふさわしい信仰の友であったと思います。
2000年を迎える頃には、到底成し遂げられないと思っていた土地区画整理の土地買い取り金調達がほぼ完了し、すべては主の奇蹟の業としか思えませんでした。
主人はゆり牧師が病に倒れて以来、信徒伝道者としてずっと説教の御用を続けておりましたが、「教会が
いつまでも無牧の状態であってはならない。」との主の御声に従い、牧師となる決心をしました。信徒の中から生まれた、おそらく最年長の牧師だったと思いますが、ようやく教会に専任教師が与えられ、教会員と力を合わせ、この時期に数多くの大切な教会形成がなされていったように思います。礼拝や諸集会の整備、役員の事務分担、暖冷房・音響等の教会内設備の充実、建物の保全修理については会堂や牧師館の屋根葺き替え・床の張り替え・車椅子対応トイレ工事など、そして思い切った大木の伐採なども行われました。さらに
教会墓地が完成し、最後には待ちに待った受洗者が与えられました。
こうして教会創立以来43年が経過し、初代日野原ゆり牧師の遺志を継いだ千葉巌牧師が、病のために教会を去りました。その後残りの7年間にいろいろな変遷がありましたが、一昨年ホーリネスの群れより長橋晴子先生をお迎えし、創立当初の信仰の原点に立ち帰ることができ、また、2011年12月には、念願の宗教法人取得が実現しました。長橋先生は昨年天の父の御許に旅立たれましたが、その後横山義孝先生を代務者にお迎えし、教会は専任教師不在という中にあっても、皆励まされ力をいただいて、クリスマスには受洗者も与えられました。
この50年をあらためて振り返る時、主の深い摂理の内に教会が守られ、導かれてきたことを強く感じます。
「わが行くみち いついかに、なるべきかは つゆ知らねど、主はみこころ なしたまわん。
そなえたもう 主のみちを ふみてゆかん ひとすじに。」 (讃美歌494番)
私もちょうど、主人が天に召された年齢になりました。主人と同じ肝臓の病を抱え、これからどのような道を歩んでゆくのかわかりませんが、この讃美歌のように、すべてを主に委ね、主に信頼して、残された地上の生涯を全うしてゆきたいと願っております。
日野原記念上尾栄光教会の更なる歩みが祝され、いつかこの会堂いっぱいの教会員が与えられる日を、
これからも祈り続けていきたいと思います。
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