『病室で見た忘れられぬ夢』

(57回教会創立の日を迎えて)


会員  松村 洋子

 

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんな事にも感謝しなさい。

  これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたに望んでおられることです。」

テサロニケの信徒への手紙一 5章16〜18節

 

 「ナルドの壺ならねど、ささげまつるわが愛、みわざのため主よ潔めてうけませ」

愛唱讃美歌391番の一節

 

埼玉に住み始めて本格的な教会生活のきっかけとなった大宮北伝道所との出会いは1972〜3年頃ではなかったかと思います。新築間もないピカピカの礼拝堂が広い敷地の一番奥にあって、そのお隣にゆり牧師のご自宅がひっそり建っていました。

ゆり牧師のお誘いを頂いて月1回ほどのペースで行われていた平日の午後の婦人会や、日曜日の礼拝に出席するようになりました。

日曜日の礼拝風景は決して大勢の出席者ではありませんでしたが、開拓後間もない教会に熱心な信徒さんたちが集まっておられるような雰囲気で、当時長老であった千葉兄を始め、太田姉、高林姉、船野姉、吉田姉やゆり牧師を助けて幼稚園で先生をしておられた方々も時折出席しておられる様子でした。

ゆり牧師とお目にかかってまず驚いたのはふくよかなお体からでる声量豊かな美声と何事にも驚かれる事のないであろうと思われる落ち着いたご様子でした。

その後間もなく東北上越新幹線新設計画の話が起こったため北伝道所での私の教会生活は長くありませんでしたが、当時の幼児クラスは年齢ごとにいくつかのクラスがあって元気な子供さんたちや若いご父兄の方々の出入りも多くにぎわっている様に見受けられました。

その後、上尾に移転してからのゆり牧師はご病気勝ちであったにもかかわらず熱心に婦人会活動や地域の教会との交わりをも大切になさるご多忙の日々が続きました。教会員たちは先生の体調を心配しましたが、そんなことにはお構いなしで、周囲の人のために祈られるお姿を見、それを助けて長老としての働きに徹してこられた千葉長老とご一家の真剣なご様子に触れるにつけ、否応なしに試され導かれ励まされてきたとしか思えない今の自分を思います。 

去年9月末、私は転倒・骨折騒ぎを起こして、リハビリ期間を経た長い入院生活と、未だに
デイケアに通う生活が続き、新型コロナウイルス騒動も相まって文字通り教会の礼拝に出席
する機会を逸したまま現在に至っています。
 

救急搬送された病院で手術を待つまでのある晩、不思議な夢を見ました。

リーグ戦で優勝したチームや駅伝で優勝したチームの監督さんや手柄を立てた人々が次々と
胴上げされている映像をご存じの方も多いでしょう、あれによく似た風景でした。

夢はほんの一瞬、声も無く、色もありませんでしたが、目が覚めた後もその映像は不思議と
私の脳裏から消える事は有りませんでした。

クリスマスには退院して教会へ行くことを最優先の望みとしてリハビリに励んできましたが、それも叶わずなかなか痛みが消えなくてもうここから外へ出られないのではないかと意気消沈しそうになることもありましたが、一瞬の夢のお陰でいつかはきっと出られると自分を奮い立たせる事が出来ました。

わっしょいわっしょいと胴上げされている人は実は私で、それはとりもなおさずいつも私のために祈っていて下さる方々、応援して下さっている方々なんだと信じる事が出来ました。肉の家族と共に教会の家族の祈りの力強さをいつもこの身に感じながら病院での厳しいリハビリや痛みを耐え抜く事が出来ました。

事情があってお見舞い下さる事をご遠慮していましたが、お手紙や電話やメールで励まして
頂きましたし、長橋先生にはお忙しい時間を割いて度々病室へお見舞い下さり、励まして頂きながら祈りを合わせる事が出来ました。その上、長橋先生が按手礼を受けられてからは病室で先生と二人で聖餐式に与る事も出来ました。体力は以前に比べて比較にならないほど弱りましたが、神さまは私をまた生かして下さったのです。こんな体でもまだ何か出来る事があるかもしれないと思える様になりました。

激しい動きは出来なくても祈る事はいつでもどこでも出来るのですからきっと神さまは私に
それを望んでおられるのでしょう。

信仰の先輩方を思い起こしながら、愛する教会の家族と共に今年も創立記念の日を迎える事が出来た恵みを心より感謝致します。ハレルヤ。ハレルヤ                    





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