『あなたはどこにいるのか』

(2010年6月「ロンドンVIPの会」スピーチより抜粋)


教会員  岩村  浩


私は子供の頃、教員であった親の都合で幾度となく引越しをさせられました。ですから、どこが故郷ですかと
聞かれて特定の町は思い浮かばず、あえて言えば「北海道です。」と答えるしかありません。
就職してからもサラリーマンの運命は転勤です。そのせいなのかどうか定かではありませんが、時々朝寝ぼけている時に、“今、自分はどこにいるのだろうか” と思うことがあります。

寝ぼけた時のことは他愛のないことなのですが、仕事の中で、あるいは生活の中で私は自分を見失いそうになることがよくあります。英国に赴任してからも仕事の成果が上がらない、文化や言葉の問題もあり上司や同僚と
理解を共有できない、そのようなことが私の短気な性格と相まって、大きなトラブルとなることが幾度となく
ありました。自分がよってもって立っていたものがいとも簡単にぐらつく中、一挙に自信は吹っ飛びうろたえてしまう。実はクリスチャンになってからも、私の人格、そしてトラブル続きの人生はあまり変わっていません。

このような私ですが、クリスチャンになって以来、目立って変わったことがあります。
それは、心の中で “つぶやく” ことです。「神様、どのようにしたら良いのか教えてください」、あるいは
もっと直接的に 「神様、どうか早く助けて下さい!」 “つぶやく” というよりは、“叫ぶ” ということを
するようになりました。これが自分にどのような変化をもたらしたかをお話する前に、私が、いかにしてクリスチャンになったかを、まずお話したいと思います。

私が生まれて初めて神様なるものから強いショックを受けたのは、『レ・ミゼラブル』を読んだ時でした。この本の何に強いショックを覚えたかと言いますと、“人は変わり得るのだ” ということです。私はぜひこの不思議を知りたいと思い、ジャン・バルジャンが変わるきっかけになった場所、教会へ行ってみようと思い立ったのですが、当時私の住んでいた田舎町には教会は無く、最も近くでもバスで30分以上かかることがわかり、13歳の少年の大冒険は実行されずに終わりました。

次に私がクリスチャンと接したのは、大学受験で志望校には入れず、不本意な気持ちの中、失恋も重なり、学生生活に行き詰まりを感じてアメリカに逃げ出し、コロラドで、留学ならぬ遊学をしていた時のことでした。学生寮で知り合ったアメリカ人の女の子を週末デートに誘ったところ、金曜日は毎週クリスチャン学生の集会があり土曜日はアルバイトに行かなければならない、さらに日曜日は教会で奉仕があると言われ、結局金曜日の集会に彼女と一緒に行くことになりました。

集会では何人もの学生が、今週自分に起こったこと、イエス・キリストが自分に示してくれたこと、また導いてくれたことなどを次々に語りました。特にエリート学生から真顔で、“イエス・キリストがいかに日々の生活の中で自分を助けて下さっているか”という話を聞かされると、さすがにびっくりしました。それまで私はキリスト教を含め、宗教は弱い者の逃げ道くらいに考えていたからです。ところが彼らは真剣に、2千年も昔、中東の
片隅で死んだ男の話を、あたかも自分の親か先生のように、しかも今も生きている人のように話しているのですから、驚かずにはいられません。しかし私は、「冗談じゃない。俺は日本人だ!アメリカ人みたいに単純じゃないんだ!」と、うそぶいて、イエス・キリストとの出会いを持てぬまま、遊学を終えて日本に戻りました。
    
日本へ帰って半年が過ぎた頃、大学のキャンパスで、私はあるアメリカ人学生と出会いました。何と彼はコロラドから来ていたのです。その日彼は大学のキャンパスで一人、「神様どうかキリストを証する友を自分に与えて下さい。」と祈っていたのだそうです。そして目を開けて先を見ると、私が、コロラドのスクール・マークの
ついたバック・パックを肩にかけて歩いていたと言うのです。私たちはすぐ友だちになりました。この当時、
クリスチャンになって間もない彼と、興味はあるが、未だクリスチャンにはなれない私との間の中心話題は、
“神の愛”についてでした。聖書は実に多くこのことを語っていますが、中でも、「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る
ためである。(ヨハネによる福音書3章16節)」 この言葉の意味について私たちは多くを論じ合いました。
   
そして“神の愛”について考えていくうちにふと、少年時代に読んだ『レ・ミゼラブル』のことが頭をよぎりました。あの一強盗のジャン・バルジャンが、何の力によってあれほどの人物に変えられたのか。それは紛れもなく、高い地位にありながら神の僕として清貧に甘んじ、貧しい人々に尽くし、刑務所を出ても行くところが無かったジャン・バルジャンさえも、友としてもてなしたミリエル司教を通して、ジャン・バルジャンが神の愛に
触れ、そしてそれを受け入れたからではないのだろうか。13歳の時からの疑問への答えが、ようやく見つかったという気がしました。

それでも私の抵抗は続きます。「君はそのうちアメリカに戻り、アメリカで生きてゆくのだろう。クリスチャンになったと言ったところで、誰も咎めもしない。いや、かえって社会的に都合が良い場合さえあるんじゃないか。ところが僕は、この日本でサラリーマンをして暮らしていかなければならない。だからちょっとやそっとでクリスチャンなんかにはなれない。だいたい今まで日本人で、しかも立派な社会人で、クリスチャンなる者に
会ったことなど無い。」

アメリカンと一緒にされてはたまらないなどと強がっていましたが、内実は神を知りたいと言う思いと、何か
引き返せないところへ入って行くような不安な思いとの間の葛藤で、心が苛立っていただけでした。さらに、
日本でクリスチャンになることは、変な人と思われるだけで、デメリットは多くてもメリットは無いという打算もあったと思います。

ところが彼はなんとすぐ、日本人のクリスチャンを私のところへ連れてきたのです。その方は、現国際飢餓対策機構総主事の神田英輔先生でした。そして3人で話し合ううちに、先生も全く同じ不安を抱え迷いつつもクリスチャンになったことを聞きました。中でも驚いた話は、先生は自分に伝道していた宣教師を試したと言うのです。ある台風の夜、先生は伝道師と会う約束をし、本当に彼が来るかテストしたそうです。嵐の中、ずぶぬれになりながら約束を守ろうと彼を待ち続けた宣教師を見て、先生は、自分には無い、何か凄いものをこの人たちは持っていると確信した、と話されました。さらに先生は、「我々日本人は礼儀正しく、精神性の高い、素晴らしい国民だと思うけれども残念ながらあの不思議な力を持ち合わせていない。民族、文化、そして時代を超越して誰でも受け取れる神からの贈り物を、我々日本人も頂こうではないか。」 と言われました。

その晩3人一緒の中で、私は祈りました。「神様、私はあなたの多くの恵み深い計らいを偶然だと無視し、あなたが遣わしてあなたを証して下さった多くの方々を避け、あなたの愛を拒み続けてきました。どうか私の罪を
お許し下さい。イエス・キリストを私の救い主としてこの世に送られたことを感謝致します。また、イエス・
キリストが私の罪を負って十字架にかかって下さったことを信じ感謝致します。どうかイエス・キリストが私と共に、私の人生の導き手として一緒に歩んで下さいますように。あなたの愛する御子であるイエス・キリストの名によってお祈り致します。 アーメン。」 

これが、私がクリスチャンになった瞬間でした。聖書の中に、アダムが神様を避けてエデンの園の木の間に隠れた時、「あなたはどこにいるのか」と言って、神様が捜されたという話があります。神様はまさに、私を捜すために、また私が神様と出会えるために、多くの方々を備えて下さいました。それでも私は、その方々との出会いから逃げたり、彼らを拒み続けてきましたが、神様は忍耐強く諦めずに私を捜し続けて下さったとわかりました。

さて、クリスチャンになると、神様の御力で人が変えられるという話がありました。
この私はどう変わったのでしょうか。ジャン・バルジャンのように別人のごとくは変わりませんが、最初にお話しましたように、何かにつけ、事あるごとに、神様に向かって、心の中で語りかけ、あるいは叫ぶようになりました。

神様に語りかけながら歩む中で、不思議なことに、今まで見えなかった自分自身やありのままの自分が、次第に見えてきたのです。強がっていても実はすこぶる臆病な自分、人の誤りや弱さを見つけて攻撃するのは熱心なくせに、自分の誤りを指摘されれば憤る。自分が他人より劣っているということを認めたがらない。今まで気にもしていなかったことが、次々と神様によって示されていきます。でも悲しいかな、自分が持って生まれた性格はそう簡単には直りません。神様の前に自分は何も隠すことができません。しかし神様は、そのような私をありのままで愛してくださる・・・。この確信が得られた時、少しずつながら、自分の方向を変える勇気と力が与えられました。

まず私が体験したのは、人を“赦す”ということでした。以前は何かされたら倍返しを旨としていた私です。神様は私に、私自信も弱く、また過ちを犯しやすい者であることを示し、私と対立、あるいは争った相手を、相手がどう思おうと“赦す”ことを迫ってこられました。

このことは二重に不思議なことを私にもたらしました。一つは“憎む”という、何の益もないのに恐ろしくエネルギーを浪費することから解放され出したこと。そしてもう一つは、最初から相手を憎まないという神の前提に
立つと、以前よりも遥かに大胆に是か非かを誰に対しても言えるようになったということです。このことが、
幾度となく私の人生の岐路と思われるところで、大きな力となりました。

神様はよく陶芸家にたとえられます。クリスチャンはその作品の器ということになるかと思います。もしそうであれば、私は未だ陶芸家が練りこんでいる粘土だと思います。いろいろとトラブルの絶えない人生ではありますが、その都度、神様が硬い粘土である私を練り込んでいる、そう思うのです。神様は甘やかしはしません。
頑なな私の心を砕くために、またすぐ思い上がる私を諭すために、神様は固い粘土を力強くこねる陶芸家のように、試練を与えますが、私が自分の弱さゆえ、どうしようもなく行き詰まると、必ず私の前に解決の道を備えて下さいます。

皆さんもどうか今晩、神様が呼んでおられる声に静かに耳を傾けてみて下さい。
「あなたはどこにいるのか」と、神様は私たち一人一人にいつも語りかけておられます。

不安な時、苦難の中にある時、自分を見失いそうな時、嬉しい時、悲しい時、どんなきっかけでも構いません。皆さんも神様に向かって声を上げてみて下さい。
「神様、私はここにおります。私を見つけて下さい」と。神様は必ずや、キリストを信じる人々を通して、また
いろいろな体験を通して、ご自身を示されることでしょう。

そして自分の力ではどうにもならない不安や孤独、あるいは困難の中にある時も、絶えず支え、励ましそして、助けて下さる“愛の神”と共に歩む人生へと、皆さんが変えられてゆくことを、心から願っております。



   ウィンドウを閉じる