『大きな喜び』

   (2016年12月23日キャンドルサービスメッセージ)


牧 師  長橋 和彦


クリスマスおめでとうございます。おいで下さった皆様と共に、クリスマスキャンドルサービスができますことを、大変嬉しく、感謝しております。

お子さんが生まれる、お孫さんが生まれる“誕生日”は、大きな喜びです。その日に向けてあれこれと家族が気遣い、準備をします。とにかく、待ち遠しい誕生ですから、喜びは大きくなります。待ち望んでいた家族親族がその子を見ようと次々に集まり、賑やかです。
 
クリスマスは、救い主イエスの誕生を記念する時です。しかし、イエスさまの誕生は、違っていました。誕生の直前に、マリアは、夫になるヨセフと一緒に、現住所の北のナザレから、南へ、ヨセフの本籍地であるベツレヘムという町に旅をすることになりました。ユダヤの支配者のローマが税金確保のため、下した命令で、すべての住民たちは、それぞれ本籍地に戻り、登録をするという、慌ただしい事態になっていました。町の宿屋は、人ですでにいっぱいになっていたのでしょう。それでも、マリアの出産の緊急事態があるのですから、何か考えてもよさそうですが、宿屋の部屋はすべて断られてしまいました。救い主イエスは、家畜小屋で、誕生されます。
そしてそこにあった飼い葉桶の中に、おかれました。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」のです。人間の心遣いがあったわけでもなく、また歓迎されたわけでもありませんでした。救い主イエスは、人間も泊まらない家畜小屋でしか、受け入れられなかったと言えます。大事な誕生という喜ばしいことであるのに、社会の片隅におかれてしまいました。

救い主の誕生日を記念して、このお方をお迎えする心を持っているだろうか。
考えたいと思います。私たちが日ごろ体験してきていることに、大事な事、重要な事は、小さく始まり、次第に勢いをつけてくるものだと知らされます。一方、大きく、華々しく始まっても、次第に萎(シボ)み、消えてしまうものがあります。どこに注目するかは、大事です。

イエス様の誕生は、両親が知らせたのではありません。神に仕える天使たちでした。それを一番先に知らされたのは、羊飼いたちでした。町の中心的な人たち、ユダヤの王家の人々でもありませんでした。遊牧民であり、
しっかりとした家を持たず、羊とともに、牧草を求め、移動する貧しい人々でした。彼らに重要な知らせがなされました。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」と、神のことばでした。そしてその内容です。「今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(キリスト・救い主)である。」ユダヤの人々が待ち望んでいた、ユダヤの人々と、それだけでなく全世界の人々のために、救い主が生まれたと宣言されたのです。

救い主とはどのようなお方でしょうか。
このお方は、天地万物をお造りになられた神さまご自身でいらっしゃいます。
このお方は人間となられた神の御子イエスでいらっしゃいます。このお方が神さまに造られた人間の中に来て
くださったお方です。このお方のことは、聖書に書かれていました。聖書は、66の書物にまとめられ、1つの聖書になっている厚い書物です。1400,1500年にわたり、多くの著者により書かれていますが、不思議なことに聖書の中心は、このお方、救い主イエスについてです。古い約束である旧約聖書には、神さまが、ご自身を人として、救い主イエスとして人々の中に遣わすと予め語られています。新しい約束である新約聖書では、救い主が人間の中にお出でになったこと、どのように救いを実現してくださったのかを語っています。どれも、歴史的事実によってわかりやすく語られています。

救いとは、何からの救いでしょうか。
不安からの解放、救いです。不安の暗闇に、光が照らされると、その闇は一瞬にして、取り除かれます。キャンドルの灯りは、希望です。人は、誰でも、古代でも、現代でも、生活していく限り、不安に会います。大人だけでなく、小さな子供も子供なりに不安があります。生活、健康、教育、持っているもの、人との関係についてです。不安が人の心をトゲトゲしくし、家族や隣人を傷つけてしまいます。不安は不信を作り不信から疑り深くなり、偏見が生じ、部族と部族、民族と民族、国と国の対立がおこります。救い主は、健康な人より、病の人を
求め、癒されました。富める人より、多くの貧しい人々を助けられました。死んでしまった人々を生き返らせ、家族のもとにお返しになりました。病の苦しみをご自分も背負われ、貧しさを味われ、死の悲しい別離に涙され、すべての人々の痛みをご自分のことのように、引き受けられました。ご自身は、その苦しみの一つ一つを
担われて、私たちを不安から解放し、救い出してくださいました。

実は、救いはそれだけではありませんでした。
「地には平和、御心に適う人にあれ。」と天の大軍が言います。天の父なる神様の前に立たされた時、私たちは、神の御心に適って、平和を受けるに相応しいかどうかということです。

私は、4年前、妻を亡くして、母親と35年振りに同居しました。介護しているわけではありません。恥ずかしい話ですが、この年になって親に、どれだけ感謝しているだろうかと反省するようになりました。親に育ててもらいながら、意識せず当たり前と思っていました。親の反対を押し切り、親の心から遠く離れたこともありました。私の考えが間違ってはいなかったと思いますが、未熟なところが多く、いつ自分のもとに戻って来るのかと親を不安にさせ、苦労を掛けてしまいました。

天の父なる神様に対して、私たちはどうでしょうか。愛されていますが、それを当たり前にし、不平不満のみ
言いたい放題、感謝を忘れていないでしょうか。神さまに背をむけて反対方向に向かって生きていないでしょうか。実は、ここに不安の根、聖書の言う罪があります。神さまに背を向け、自由に生きようとしました。しかし自由になれば、すべての責任を負わなければなりません。それを自分で果たせるかの不安です。そして、やがて神さまの前に問われるからです。救い主イエスは、私たちに代わって、神さまに執り成して下さいました。

ご降誕下さった救い主は、神さまの前に、もてるもの全て、命までも差し出され、私たちにために、執り成してくださいました。救い主は、父なる神さまに完全に従われました。神さまは、もはや私たちの姿ではなく、このお方の完全な姿をご覧になり、それを私たちだと見做してくださいました。
それは、救い主の下さったプレゼントであり恵みです。“クリスマス・プレゼント”です。私たちは、神さまとの平和を受けました。私たちは、最後の不安からも解放され、救われました。安心して、人生を喜べるのです。

ユダヤの小さな町ベツレヘムに、しかもその片隅に降誕された救い主イエスは、やがて全世界をとらえて、民族を超え歴史を超えた、解放、救いを実現してくださいました。彼を信頼し、信じ受け入れる人々には、神の裁きではなく、その罪の赦しと神さまの平和を与えてくださいました。救い主イエスがもたらす希望の光に感謝しましょう。

主イエスのご降誕を、今晩、みんなで、私たちの心の部屋にお迎えしようではありませんか。
聖書は「地には平和、御心に適う人(私たち)にあれ」と、今、高らかに謳っています。



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