『ナルドの香油』

                              (2012年3月11日主日礼拝説教)


                                                              伝道師  長橋 晴子

おはようございます。本日は3月11日です。昨年の今日、あの未曾有の、東日本大震災が発生し、大津波により多くの人命が失われ、家や財産や仕事場を全て押し流される被害が広い地域に起こりました。また、これに伴って発生した
原子力発電所の事故のために、多くの人々が故郷を奪われ、放射能汚染の不安が、広い地域に及んでしまいました。
教派教団を超えて、多くの教会も様々な被害を受け、その復興はまだ始まったばかりです。

本日は、「ナルドの香油」のメッセージの後、日本基督教団救援対策本部から発行された、3.11祈りのしおりに従って、共通の課題を祈る時を持ちたいと思います。

ひとことお祈り致します。
「すべてをご支配なさる天の父なる神様、あの未曾有の東日本大震災から一年が経ちました。 この一年を振り返ると、日が過ぎるに連れて、まさかと思った被害が次々と現実となり、脅威の日々でした。主よ、今なお、被災され苦難の中を歩まれている人々に、どうか慰めと力と、希望をお与え下さい。また今まで、日本中、いや世界中の人々が被災者を
覚え、それぞれの方法で支援をされてきました。その方々も祝福してください。そして、引き続き、この大震災を忘れないで、支援していくことができますように、お導き下さい。今、私たちにできることは、ほんのわずかですが、全能の主に日々祈り求めることができますよう、私たちを、祈り手としてお用い下さい。これから、御言葉に耳を傾けます。
聖霊なる主がご支配下さるように、お願い致します。この時をすべて御手に委ねて、主イエスキリストの御名により、
お祈り申し上げます。アーメン」

先程読んで頂いた聖書の箇所「マルコによる福音書14章1節〜9節」は、福音書の中で、イエス・キリストの受難物語への序奏として位置づけられます。1節2節の「祭司長や律法学者たちのイエスを殺す計略」と、10節、11節の「イスカリ
オテのユダの裏切り」とにはさまれて、3節〜9節には、ベタニアでの香油の物語がきわだって美しく書かれています。

主イエスは受難週の日曜日にエルサレムに入場されました。火曜日までは引き続き、忙しく人々を教え、また多くの質問に答えることで、多くの時間が費やされました。しかし、水曜日をいかに過ごされたかは、福音書にははっきりと記されていません。多分ベタニアあたりで、静かに時を過ごされていたのかもしれません。しかし、主イエスを敵視する祭司長たちは、じっとしていませんでした。彼らは、その日に集まって相談し、主イエスを殺す計画を企てるのでした。
1節をご覧下さい。この日のことが記されています。

1.さて、過越祭と除酵祭の2日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、
  なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。
2.彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

過越の祭りと除酵祭とは、実は2つの異なる祭りです。過越の祭りは大祭といって、三大祭のひとつで、安息日の様な
重要な祭りです。これには2つの意義があり、1つはイスラエルの民がエジプトの奴隷であったことからの解放を記念
する、歴史的な意義を持っていました。

2つ目は、農業的意義を持っており、大麦の収穫のしるしとして、新しい大麦を主の前に差し出すことでもありました。
過越しのまつりのためには、1ヵ月も前から様々な準備がなされました。過越しの祭りについては、また別の機会に詳しくお話致しましょう。

除酵祭とは、読んで字のごとし、イースト菌の入っていない種なしパンの祝いとも言って、過越しの祭りを記念して、その翌日から1週間種なしパンを頂く祭りなのです。

さて、主イエスに嫉妬していた祭司長たちは、新改訳では、「どうしたら、イエスをだまして 捕え、殺すことができるだろうかと懸命であった」と記されています。原語でも「だます、道を曲げる」という意味を含んでいるのです。

2節で「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」ということばは、過越しの祭りになると、人々が巡礼のために、エルサレム神殿に各地から集まって来ることを意味し、祭司たちは、主イエスを捕えることに対し、民衆の目を
恐れていたのです。そのため、祭りを終えてから実行するつもりでした。ところが、実際は幾百万のユダヤ人が各地から都に集まっている真ん中で、主イエスを十字架につけるという事態になったのは、まさに神の摂理によるものでした。

つまり、これらの事柄が、秘密裏に片隅で行われるべきではなく、主イエスの十字架の死を公にするための、神のご計画だったのです。
この様な状況の中、ナルドの香油の物語が始まります。

3.イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に
  高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。

ひとりの女性とは誰でしょうか。マルコ伝では、具体的な名は記されていません。
並行記事はマタイ伝とヨハネ伝にありますが、マタイ26章6節〜13節では、マルコ伝と同じように、主イエスが、ベタニアで重い皮膚病のシモンの家におられた時、一人の女が香油の入った石膏のつぼを持って主イエスに近づいたと記されています。

それに対し、ヨハネによる福音書では、ベタニアのラザロの家で食事が整えられ、妹のマリアが香油を注いだ内容にあっています。マリアは純粋で非常に高価なナルドの香油を持ってきて、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった、と記されています。

マルコによる福音書では、名の知られていない一人の女が、主イエスの頭に香油を注ぎかけます。マルコの理解では、当時の祭司や律法学者から「律法を知らないこの群衆はのろわれている」と烙印を押されている無名の人々のために、共に生きておられた主イエス。そのイエスが死に向かう途中で、香油を注ぐ女は、無名がふさわしいと考えたようです。

当時、客人が家に到着したとき、あるいは食事の席に着いたとき、数滴の香油をかける習慣がありました。ナルドの香油は、インドの奥地で取れるヒマラヤ原産のナルドという植物の茎から取った香料を原料に、作られた非常に高価な香油だったのです。しかし、その女は、石膏の器を割って、中身を全部主イエスに注いだのでした。

第1のポイントは、女は壺を割って、全部注ぎかけたことです。
彼女が壺を割った理由を考えてみましょう。
@ 彼女はそれを割ったのは、全部を使用するというしるしであったかもしれません。東洋では、昔、有名な、優れた人が
   杯を使用した後には、他の人の手に触れさせないためにそれを割るという習慣がありました。
A 東洋では死んだ人の体を水浴し、次に油を塗る習慣がありました。その後、香油の入った壺を割って、墓の中に死体
   と共に破片も入れていた様です。その女がこれを意図していたかどうかわかりませんが、結果として、彼女が行った
   ことは、まさに尊敬する人の死を前に最高、最善を捧げたのです。
B 女は持っているものすべてを捧げました。

ところが反対者が現れました。彼らの見るところは違っていました。
4.そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。
5.この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を激しくとがめた。

ヨハネ伝では、イスカリオテのユダが憤慨したと記されています。高価なナルドの香油の値段を考え、これを売って貧しい人に施すべきと、非難したのです。確かに、当時労働者の1日の賃金は1デナリなので、ほぼ1年分の給料を一瞬にして使ってしまい、これは、恥ずべき無駄遣いと人々は断定しました。

それに対し、主イエスはお答えになります。6節が第2ポイントです。
14:6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれた
     のだ。」
14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも
      一緒にいるわけではない。
14:8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。

主イエスは、この女の、愛に溢れた誠を喜んで受け入れられました。その全身全霊を注いだ、心尽くしが、冷たい打算
以上のものであることを認められたのです。それだけの金額を貧しい人に分け与えたら良いとする考え方は、いかにも
人が人として生きる立派な姿のように見えます。

しかし、理屈、論理の正しさは、かけがえのない主イエスの命と、わたしたちの身代わりとなる、重大な十字架の死の
事実に適っていたでしょうか。むしろ主イエスから遠く、彼ら自身を引き離してしまっているのです。

14:9 「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のした ことも記念として語り伝え
      られるだろう。」

第3ポイントは、女のしたことは記念として語り伝えられるというのです。なぜ記念すべきことなのでしょう。
@ 彼女のした行為は主イエスのご生涯の目的にふさわしく、美しいのです。つまり、主イエスは生きておられる時も、
  全ての時間を捧げて、人々のために尽くされま した。しかも最後は、人類の救いのために、自らの命を捧げられたの
  です。
A 愛が真の愛ならば、そこには、ある種の浪費があるのです。犠牲とも言えます。
 
そして、そこには喜びが自然と伴うものです。計算しながら、見苦しくない範囲でなどと考えていたら、それなりの結果はあるかも知れません。自己中心の狭い範囲の中にいて、とても人の思いに答える、また主イエスの御心に応答することは、できません。残念にも、想定外として切り捨ててしまうことになるでしょう。打算の考えには、全き愛による関係は失われています。
 
愛は信仰と共に働き、受けるだけでなく、犠牲を払う、また与えることのできる力です。
ですから、愛が、主イエスとの関係を回復させるものであり、また人との関係を豊かに造りだすものです。

B 大切なことは、ただの一回限りしか、チャンスがないという事もあるのです。ここぞと 思い切ったことをするように心を
   動かされることがあります。この女は、非常に高価な香油を活かす最大のチャンスを見逃しませんでした。主に捧げ
   ました。主はその心を喜んで受け入れてくださったのです。

3月11日を迎え、私たちは何ができるでしょうか。主の前に静まり、主に問うてみましょう。
主がこれから何を成してくださるか、祈り求めましょう。



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