『感   謝』

                              (30周年記念誌・50周年記念誌・「いのちの響き」より抜粋)


                                                   聖路加国際病院名誉理事長  日野原 重明

日野原記念上尾栄光教会は、日野原善輔牧師未亡人のゆり牧師と千葉家、その他の少数の信者のなみなみならぬ努力で創立されました。
 
私の父日野原善輔は、私の母満子の死亡後、東京都世田谷区の日本キリスト教団玉川平安教会の牧師を1953年に辞し、千葉ゆり姉と結婚し、賀川豊彦先生の斡旋で栃木県真岡市での開拓伝道を志しました。

教会堂新建築の募金計画をアメリカで展開し、かつまた、アメリカの諸教会を門安し、伝道することを願って米国メソジスト教会のモーア監督、ベレー牧師、パルモア牧師らの援助により、1957年4月に夫婦で渡米することになりました。
 
まずシカゴにおける40日間を葛原定一牧師(ゆり夫人の叔父で、北米ホーリネス 教団初代監督・シカゴレイクサイド教会牧師)のもとで伝道を援助し、6月には母校、デューク大学における卒業式ならびに同窓会に出席した後、夏は北カロライナ州ジェネレスカ湖畔の修養会講師として出席し、またアトランタ市におけるモーア監督の伝道を助けました。9月からはベレー牧師の斡旋によりバージニア州リッチモンド市のアズベリー神学校の客員教授を務めました。講義のない週末は、バージニア州及び北カロライナ州を旅行し、各市の数多くの教会の礼拝の講壇を受け持ったり、婦人会その他の修養会の講師として働き、きわめて多忙な毎日を過ごしました。
 
1958年6月、アメリカのメソジスト教会の年会がリッチモンド市で開かれた時、この席でアメリカを去るにあたっての
最後の挨拶をなし、またアズベリー神学校の同窓会でスピーチをした後、高熱のために倒れたので直ちにリッチモンド記念病院に入院 しました。入院後に肺炎が急速に進行し、肝臓障害を起こし、4日目の朝、病気が 急に悪化しました。死を覚悟した父は、看護婦の一人々々に感謝の言葉を捧げ、ゆり夫人による詩編第23編「たといわたしは死の
蔭の谷を歩むとも、わざわいを 恐れません。あなたが私とともにおられるからです」を聞きながら、平和なほほえみを浮かべたまま召天しました。
 
葬儀はベレー牧師およびスタット牧師の司式のもとに、多数の教会員の出席を得て日本の教会での葬儀形式で行なわれました。その時、司式者から読まれた言葉は、「彼は死にましたが、その信仰によって今もなお、語っています」
(ヘブル11:4)というみことばでした。
 
父は、信仰の人、努力の人、実践の人でした。
心の底から「骨になるまで伝道したい」と願っていました。ウェスレーが死亡する時に口にした「最もよいことは、神が
わたしたちとともにいて下さることだ。“The best of all is, God is with us”」という言葉は、父が最後まで心から愛して
いた句でした。
 
ゆり夫人は、1958年9月、未亡人として帰国しましたが、賀川豊彦先生のご配慮により、日本聖書神学校に2年間編入学し、同校卒業後浜崎次郎牧師を委員長とする日野原開拓伝道後援会の支援のもとに、大宮市郊外での開拓伝道に従事しました。父の死後、ベレー牧師のご努力により、アメリカから3000ドルの寄付金がよせられ、 日本での募金を加えた合計500万円余の金額で、292坪の土地に18坪の小集会堂(牧師館を含む)が備えられ、開拓伝道と幼児クラスが始められました。ゆり牧師は、1970年5月に按手礼を受けられました。この年には、日本キリスト教団やその教区の援助、ならびに国内の各地の父の関係者、信者からの募金により、42坪の教会堂が建築され、1972年には19坪の教育館と牧師館の改造が行なわれました。
 
1977年度には、東北上越新幹線設置のために、近郊の上尾へ移転を余儀なくされましたが、これに対する国鉄からの補償金をもとに、上尾市に415坪の敷地が換え地として与えられ、礼拝堂、教育館、牧師館合わせて107坪の
立派な建築が完成しました。
 
この教会をゆり牧師は、日野原善輔牧師の開拓伝道の志を後世に残したいとの願いから「日野原記念」教会と名付け同時に日野原牧師が40歳代に建てた神戸市の栄光教会の名をとって、「上尾栄光教会」と名付けられました。
ここでゆり牧師の伝道活動が本格的になされ始め、教会音楽を取り入れた活発な伝道がしばらくされましたが、かねての慢性の成人病のために活動が抑えられ、長年の療養を余儀なくされました。

ゆり牧師は、遂に1990年11月につくば市の筑波学園病院入院中に死亡されましたが、教会の無牧の間、少数ながら信者の皆さんの非常な努力と教区の教職原田牧師、小海牧師、そして日野原牧師の親戚に当たる佐藤三郎牧師、日野原忠明牧師、また日野原善輔牧師の前任地玉川平安教会の小沢貞雄牧師や、その会員の応援を受けました。
 
1997年には大沢章夫伝道師がそのあとを受け、1998年には千葉巖伝道師が着任され、2002年には正牧師に
就任されました。2005年11月、土地区画整理事業のため2129万1千円が拠金され、会堂・牧師館・教育館修理もなされました。

2006年には千葉巖牧師が病気のために辞職され、山野忠男・裕子両牧師が同年4月に着任されましたが、2年で
辞任となり、その後木村勝則牧師を経て、2011年4月に長橋晴子伝道師が就任、同年12月には宗教法人「日本
基督教団日野原記念上尾栄光教会」として認可を受けることができました。

しかし、長橋晴子伝道師は着任1年後に急病により逝去、2012年9月からは東京聖書学校副校長の横山義孝牧師が代務者となられました。
2013年5月22日には創立50周年を迎え、6月2日には私の特別伝道礼拝と50周年記念祝賀会が計画された次第です。
 
顧みれば過去50年は多難な歩みでしたが、今回恵まれて50周年を迎え、日野原善輔牧師の次男であり医師である私が、伝道集会のお役を務めさせていただける ことになりました。私にこの機会が与えられたことを深く感謝する次第です。
 
日野原牧師とゆり牧師は、常に「神偕(とも)にいたもう」という強い信仰と確信の下に働かれました。その信仰がこの
教会の信徒により引き継がれることを祈念し、教会活動に参与され、また今は亡き教師・信徒の方々にも感謝の言葉を捧げます。



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