『日野原先生の牧師像』

(日野原善輔遺稿集 「いのちの響き」序文より抜粋)

 
牧 師  浜崎 次郎


先生ほど牧師らしい牧師は知らない。学校長でもあったし、教団では総務部長や出版委員長を したこともあったが、牧師という肩書きが最も先生に適わしい。

牧会には実に忠実であった。ことに若い時から、その誇りであった健脚に物を言わせて、ほとんど毎日幾10軒というほど、時を惜しんで信者や求道者を訪問した。総務部長として毎日教団に出勤された頃には、出勤前に先ず訪問し、
帰途は夜にかけて訪問し、夜11時に及ぶことは稀でなかった。
「一日に30軒も訪問したそうですね」と次男の重明氏に尋ねると、「いやもっとでしょう。イースターの前日などはもっと沢山の家を訪問しました」とのこと。先生の牧会成功は、この熱心な訪問にあった。

先生はハガキや手紙をよく書かれた。毎日恐らく何十枚かの通信を書かれぬ日はなかったであろう。大方、夜更けて
から、読書や執筆をしたが、その手紙たるや、一枚のハガキ、一枚のレターペーパーの隅から隅まで、余白というものを残すのは勿体ないといった調子で、細字で埋め尽くすといった書きぶりであった。
自分がこの冬受け取ったアメリカからのお便りなど、四つ折のクリスマスカードであったが、その裏表ことごとく細かい字で書き潰されてあった。旅行先からは、せっせと教会員の誰彼となく、絵ハガキに通信文を書いた。車中で書き、食事後でも、会議中の僅かな休憩時間を惜しんでハガキを書いた。
それがいちいち相手との個人的関係を考えつつ書いたのだから受け取った方で、喜ばれたのは当然である。

説教は例話の多い、どんな無学な求道者でも判るような、平易で、明るく、希望と慰めに満ちたもので、神学的な堅苦しいものやドライな講解的なものではなかった。
週報も隅から隅まで、御自分の手によって原稿を整え、内容の充実した、行き届いたもので、一見して教会のあらゆることが判るといった型のものであった。

伝道の熱心さも、いかなる伝道者にも引けをとらなかった。「一生懸命」は先生の口ぐせであった。真岡教会に転任したときは、たしか満78歳にもなっておられたが、就任すると 直ちに全町の戸別訪問をして挨拶をして廻り、教会に案内をなし、神戸のパルモア氏その他を招いて次々に伝道会を催したばかりでなく、自らも、関東教区伝道委員を買って出て、栃木、茨城、埼玉、群馬、新潟の全関東教区内の諸教会に伝道の応援をして歩かれた。
 
性格は健全な理性の人であって、絶えず新しい企画をもっておられた。その点でマンネリズムの形式主義や、なまぬるさに我慢のできぬ人であった。新しいことを企てる時には 徹底的に打算し、万遺漏なきを期した。それが神戸でも、広島でも、東京でも、大きい事業に成功をもたらした条件であった。また何事にも情熱を打ち込み、老を忘れて、いつも若々しかったこともそこにあった。しかし何よりも意志の人であった。平和を愛し、誰に対しても微笑をもって交わり、公平で、いつも義(ただ)しい道を歩もうとされた。

先生は、真岡の光ヶ岡教会に就任したが、数えるほどしかない会員では、財政的には、さぞ困ったことであろうが、
そんなことは一言半句も漏らしたことはない。すぐ自ら畑をつくって陸稲を十俵収穫されたと聞いた。野菜を自作し
食糧の自給をはかった。専門の百姓に教えられ、またその援助も受けたが、自ら田の草取りまでして働き、手に豆を
つくりながら畑を耕した。

先生は個性の強い意志の人であっただけに、その行動には非難やかなり激しい批評をする者がないではなかった。
しかし、自ら豪傑ぶって、超然として相手を馬鹿にし、無視するといったところはいささかもなく、努めて弁明すべきことは弁明して誤解をとくことにつとめはしたが、先生の口から他の人に対する悪言は一度も聞いたことがなかった。先生には何人に対しても悪意を抱いて復讐するといったことは絶対に見られなかった。

先生の交友関係において、何人でも公平に、親しくという態度であったことは、同時に人との交わりが深くなかったとも言える。先生は、一面において情熱的なアクの強い人らしく見える点があったけれども、その実、御自分の手柄を
誇ったり、あれは僕の弟子だなどと言ったりしたことを聞いたことがない。いわゆる「淡きこと水の如し」といった
ところがあった。決して利己主義的なことはなかった。                 
                                                      (1958年6月記)




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