『イエスを仰ぎ見つつ走ろう』

(日野原善輔遺稿集「いのちの響き」より抜粋)
               
                                            
牧 師  日野原 善輔

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ走ろうではないか。」
(へブル人への手紙12章2節)

新しい年を迎えました。この一年をどうして過ごしましょう。キリスト者として、志道者として。

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」と、
へブル書の記者はわたしたちに親切に言ってくれています。イエスは本当に、わたしたちの
最も優れた人生のコーチャー。わたしたちを最もよく導き、最もよく完成せしめて下さる方で
あります。なぜなら、このコーチャーは側から助言するだけでなく、見つめていて下さるのです。
御自身も今なお、わたくしたち銘々のために、愛と平和の統治が全世界に実現されるまで、
すなわち地上に、全人類の神の国が建設されるまで、先頭に立って走りつつ差し招いていたもう
のです。

この年を通して、このコーチャー、この「導き手」この「完成者」を「仰ぎ見つつ走ろう」では
ありませんか。

しかしそれには条件があります。そしてそれは、当然すぎるほどの当然であります。
すなわち「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬく」(へブル12:1)ことです。

いよいよ競技では、いささかの逆風でも影響します。また技術だけの練習だけでなく、精神力が
必要と言われています。そこで、わたくしたちは、ただに、主に「従う」だけでなく、また、
ただに、月並に、世の宗教が意味するように「信ずる」だけでなく、「主を仰ぎ見る」ことが極めて必要ではないでしょうか。
      
キリスト者の貴さと、そのよさとは、仰ぎ見つつ走れるイエスがいたもうことであります。
これなしには、戦闘力も創造、建設、革新の意義も、われらの人生には見出し得られないのであります。そこでこの「イエス」を「仰ぎ見」ましょう。(中略)

詩人、エドウィン・アーノルドは「アジアの光」と題して仏陀を書き、その後、「世界の光」と
題してキリストを書きました。この「世界の光」がマタイの福音書においては、ベツレヘムに博士たちを導いた星として輝き、ルカの福音書においては牧夫たちを「めぐり照らした主の栄光」で
ありました。博士たちは示されて「幼な子にあい、ひれ伏して拝み」、牧夫たちは「このかた
こそ、主なるキリスト」と天使たちに教えられて「幼な子イエスを捜しあてた」のであります。
 
このイエスを驚異と憧憬と、敬虔と、従順と決意とをもって「仰ぎ見つつ走ろう」とする者には、キリスト教はもはや「教え」ではなく、われらを振い起たしめる神の「力」であり「知恵」であり「生命」であります。だから、それは宗教でなく「福音」であります。そしてこのイエスは、命令的なコーチャーや司令官でなく、「友」であります。
 
今日、世の中には何と自殺者が多いことか。ノイローゼの多いことか。これは「友」がないためにほかならぬのであります。真の「友」さえあれば、人は決して行きづまらないし、狂わないので
あります。

「人がその友のために自分の命をすてること、これよりも大きな愛はない。あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15:13〜14)。イエスは、わたしたち万民、一人一人のために、友愛をお誓いになったのであります。だから讃美歌312番にも、「いつくしみ深き、友なるイエスよ」“What a Friend We have in Jesus.”とあります。イスカリオテのユダは、裏切りの手段として、この「友よ」を逆用しました。

しかし、人はどのようにイエスを裏切りましょうとも、イエスは決して裏切りたまわないのであります。彼は人を裏切り、真理を裏切り、神を裏切ることのないために断固として十字架をお選びになったのであります。33歳の少壮の真人、何も死を急ぎたもう必要はありませんでした。僅かの妥協で、十字架も(誤解や非難はもちろん)容易に避け得られたのでありましょう。
しかし、「わたしは、真理についてあかしをするために生れ、また、そのために世にきたので
ある」(ヨハネ18:37)と立派に言い切って、カルバリの丘をお選びになったのであります。

その真理とは、世に生まれ、世に来られたその理由とは何でしょう。
「廃するためではなく、成就するため」(マタイ5:17)
「義人を招くためではなく、罪人を招くため」(マタイ9:13)
「すべて重荷を負うて苦労している者、魂に休みが与えられるため」(マタイ11:28〜29)
「仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人があがないとして、自分の命を与えるため」(マタイ20:28) 
「命を得させ、ゆたかに得させるため」(ヨハネ10:10)
こうしたことのためでありました。

何と言うわたくしたちへの福音、今の世界への希望でありましょう。
この信仰の真のコーチャーであるイエスを仰ぎ見つつ、思い切り、一切の虚勢、一切の不純、
「一切の重荷」と「からみつく罪とをかなぐりすてて、走りぬこう」ではありませんか。




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